あの日見た葬式の意味を僕たちはまだ知らない
死者について語る事が供養になる、などとは思っていない
誰かの死はその個人のものではなく、誰かを知るすべての人のものでありこの世は生きている人間のものであると思うし生者しか語れない世界で今日も生き残って何かを思う時、今日はその人の葬儀に参列した時に感じたいくつかの事をとりとめもなく
人が亡くなった知らせを受けるのはやはりいつでも突然で
今回も突然、去年法事で会った時は特に変わった様子もなかった親戚の一人が体調を崩し入院したその日に息を引き取ったと言う連絡を受け、葬儀に出かけた
何の前触れもないままに自分の日常に届く訃報に慣れることはきっとないと思う
今まで幾人かの訃報を受け、何度か葬儀に出席し、父を送った時は喪主になった
縁の濃さも血の濃さもそれぞれの別れの儀式に足を運ぶたびに強くなるのは 葬式は生者のためのセレモニーだと言う実感
最後のお別れに駆けつけると言うのは都合のいい言い訳で
生きているうちに会って話して共感しあう事に勝る関係はないんじゃないかと思う
でも、そう言ってその場所に行かない無礼より、駆けつける労を縁者やその場に集う人たちへのアピールとするような明日以降もとりあえず生きるであろう自分を防御する無意識・・・
それがすべてはないし、人それぞれその関係それぞれに悲哀のグラデーションはあるとしても
今回は、訃報を受けた時以前から続く非常にタイトな仕事のスケジュールとそれに伴う心の余裕のなさ、軽快していた持病が地味に顔を出してきた体調不良で止む無く欠席と言う選択もあったけれど
ただの言い訳にしかならない個人的理由や不都合を口にしてそこにいない自分を想像すれば、後々それでよかったとは思えなくて同じ言い訳ならば故人との思い出を振り返りお別れをしにいく方を選んだ生者としての傲慢さ
そういうわけで、絶不調のまま臨んだ式で体験したのは
① 読経の途中で咳払いしつつ三度椅子から立ったり座ったりする住職
② うんばらぱっぱうんばらぱっぱ らんらんらんらん ばんばんばんばんと言う奇妙な一節が挿入された読経
③ 副住職との別々の読経のコラボレーション( ハーモニーのクオリティ低 )
・・・・初体験のそれらが葬式あるあるなのか、読経あるあるなのか、私の経験からは計り知れないし、面白かったと言ったら不謹慎だとしてもやっぱり面白かった
葬式不要 どちらかと言えばと言うよりはガッツリそう思っている、自分が死んだ時は・・・・・
ますますそう思う
私が死んだら、葬式も祭壇も戒名もお経も何にもいらない
棺桶に入れないと運搬する時に大変だから、一番安いのに入れて
願わくばファックな絵とか文字とか書いてもらいたい
勝手ながら閉じたまぶたには、目を書いてもらいたい
もし知らせなくてもどこからか聞きつけて見に来た人がいたら悪口で盛り上がってくれても全然いい
私物で欲しいものかあればすべて誰が何を持って行ってくれてもいい
自分の死は自分のものじゃなく、自分の死から続く世界には何も存在しない
生き残り生き続ける立場( 仮 ) で あとどれくらいの時間を過ごすかひとつでも多くの事を面白がれる気楽さと共にある事が今の切実